(2)学部でダメなら大学院でリベンジだ!
当時、私は卒制を思い通りに作れなかった自分に腹を立て、次に、自分の才能を認めてくれなかった先生たちに腹を立て、しまいには、卒制を生み出した美大という制度にさえ腹をたてました。これは完全にやつあたりです。冷静に考えれば、自分の卒制が優れていた根拠なんて有りませんでした。卒業式で総代をつとめるほど学科で一番の成績を修めていたわけでもなければ、前期の卒制審査会で手放しに褒められていたわけでもありません。
実のところ、私は真面目な学生でした。ゼミには欠かさず出席していましたし、スローペースでしたが卒制の計画も立てていました。私のゼミの先生は学生の自主性を非常に尊重していましたので、毎週顔を合わせたところで、進捗状況を報告して、短いコメントをやりとりすれば授業は終わりでした。ゼミ所属の学生は10人いたにもかかわらず、集まる学生はお決まりの数人だけでした。私は自由なペースにのまれて、作品を試作することも、予算を行使することもないまま、1年の大半を思索に費やしていたのです。今となって振り返れば、卒制が散々な結果に終わっても当然の流れでした。
しかし若かりし頃の私には、卒制で負けた事実がうまく理解できませんでした。1月末に卒業制作展が終わり、3月中旬に卒業式を向かえても、思い込みの激しさから相変わらず腹をたてていたのです。「自分の才能を認めない先生たちには、お礼を言う筋合いはない」と言って、卒業式の後はまっすぐ帰宅しました。謝恩会には出ないつもりでした。「どうせ大学院でも顔を合わせるし」とブツブツ言っていると、両親に「素直になって、行って来なさい」「そんなに心が狭くてどうするの」と諭されました。確かに、いつまでも卒制の結果に腹を立てているというのも了見の狭い話です。同級生と会う最後のチャンスでもあります。
私は思い直して、しぶしぶ出席することになりました。豪華なホテルの一室に着くと、先生がたから「卒業おめでとう」「一年生の時から絵が上手だったね」と優しい言葉をかけられて、思いのほか涙が出そうになりました。そして、私は単に認められたかったのだ、と思ったのです。それまでは、卒制イコール自分自身だと思っていたので、賞を逃した途端に、自分が過ごした学生生活すべてが否定されたように感じていたのです。でも、先生たちは卒制以外の作品のこともきちんと覚えていました。
それに、私にはリベンジのチャンスがありました。同じ美大の大学院に進学したので、2年後には再び卒制の機会がめぐってくるのです。大学院生となった私は、積極的に研究を進めました。他大学の研究室にも通い、よその先生に学会発表の論文を見てもらって、共同研究の名目で自分の卒制の資金まで出してもらったのです。美大では自己資金で制作するのが当たり前ですが、国立大学の工学部は潤沢な研究予算に恵まれていました。私はその指導の恩恵に与り、研究テーマである水膜のアートを工学的に解析するチャンスに恵まれたのです。もちろん定期的に、自分の大学にも成果を報告して、積極的にいろいろな先生から意見をあおぐことも忘れませんでした。目指すは卒制の優秀賞です。同級生の数は5人にまで減っていました。つまり、受賞する確率も5分の1に高くなったわけです。とはいえ、製作者なら誰でも味わう、産みの苦しみも味わいました。しかし卒制のチャレンジも2回目です。最後には、研究ジャンルや大学の垣根を越えた活動が実を結び、胸を張って見せられる作品が出来上がりました。私は自信満々で卒制の最終審査会に臨んだのです。







