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2-3.私が卒制に負け続けていた時代

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(3)学科の本流から離れて、新たな進学先へ

しかし、またしても無念な結果が待っていました。栄えある優秀賞は、別の学生の頭上に輝いたのです。後で聞くところによると、私のゼミの担任の先生は、私ではなく、もう一人のゼミ生に投票していました。確かに、その学生の卒制は学科の王道を行く映像作品でしたし、質の高い出来栄えでした。それに比べて、私が作った水膜のインスタレーション作品は面白いけれども、美大の卒制にしては余りにも工学的すぎるし、学科の本流からは外れているというわけです。

先生7人ののうち6人までもが王道の学生に投票しましたが、一人の先生が、私のために応援演説を行ってくれました。しかし結果は変わりませんでした。こういった経緯を、その日の深夜の電話で私は知りました。かけてきてくれたのは、唯一、私を援護してくれた写真の先生でした。先生いわく、「君の作品は私の専門分野ではないけれど、素晴らしいものだと判った。だから投票した。でも選ばれなくて悔しいよ。ごめんな」とのことでした。たった一人でも味方がいただけで私には充分でした。嬉しくて、感謝の気持ちから涙があふれました。

その後、良い知らせが続きました。翌年度の大学案内に私の卒制の作品写真とインタビューが見開きのページで載ることになったのです。粋な計らいを立ててくれたのは、展示期間中に作品を目にした他学科の先生でした。その先生は、賞の有無に関係なく、自分の審美眼で卒制を見て、翌年度の大学案内に載せる作品を選んでいたそうです。大学を代表する広報誌への掲載が決まり、私は百万の味方を得たような気分になりました。

卒制作品イコール自分の分身と言っても過言ではありません。作品が評価されれば天にも昇る気持ちになるし、少しでもけちを着けられれば、自分が貶められたような気分になります。しかし私の快進撃はまだ続きました。卒制の作品で「フィリップモリスアートアワード」に応募したところ、ベスト100作品に選ばれて、東京国際フォーラムで展示する機会を得ました。その年、同じ美大からは他学科からもう1人、そして先輩にあたる卒業生からは2人が選ばれていました。
現代アートの登竜門たるコンテストに食い込んだだけで、私は鼻高々でした。しかし最終審査でグランプリに選ばれたのは、その先輩の一人でした。私は又もや口惜しさを経験しました。

今なら私にも理解できます。同じ20代と言っても、美大を出たての20代前半と、制作がこなれてくる28才前後では作品の出来に大きな差が生まれます。しかし、野心ばかり燃やしていた私には、落選は身を切るように辛い経験でした。若いということは、自己顕示欲に翻弄されることをも意味するのでしょう。それでも私は不屈の精神で立ち直りました。作品の判定を審査員の好き嫌いで決めるアートの世界から飛び出して、全く違う進路に進もうと思ったのです。

それは、東京大学工学部の博士課程でした(舘研究室)。バーチャルリアリティの分野では、科学と芸術の境界で新しい研究が生まれていました。私はつてをたどって工学の研究室の門を叩きました。厳しい選考を経て、どうにか合格判定をもらった後は毎日が摩擦の連続でした。私はコウモリのエピソードを思い出しました。鳥の仲間には「動物でしょ」と言われ、動物のところに行くと「羽根が生えているなら鳥だろう」と言ってのけ者にされる、という話です。アートと言うには理論的すぎて、工学と呼ぶには感性に頼りすぎる、というのが私の着地点なのでした。

しかし石の上にも三年とは良く言ったものです。やがて仲良くなった理系の先輩や同級生には、自分の直感を客観的かつ冷静に理論として展開する方法を、嫌というほど指導してもらいました。

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