
もうひとり、実例を紹介しましょう。同じ学年に、「デジャヴ」を卒制のテーマに選んだ男子学生がいました。高橋左門さんと言います。
(高橋さんには、このような流れで紹介することをご了承いただきました。心より感謝します。)
高橋さんは、時には髪を金色に染め、テクノカットよりもアバンギャルドに耳の上を刈り上げても、個性的な風貌が決まる学生でした。彼は2年生の後期に、スワロフスキーと大学の共催コンペでDNAをモチーフにした作品をを制作しました。その後、4年生の時には私のゼミには所属していませんでしたが、ここで例にあげたいと思います。
彼の卒制も講評会のたびに議論の対象となりました。「デジャブ」なのか「デジャ・ヴ」なのかといった表記の違いに始まり、語源はフランス語なかと必ず誰かが言い出し、「既視感のあるプロダクト」というコンセプトが本当に作品に反映されるのか、常に細かい質問が先生たちから寄せられることになりました。

彼が作り出す作品は、左右が反転して写る鏡や、一部を透明なアクリルで構成したテーブルなど、どこかに不思議なトリックが施されているものでした。コンセプトを説明するまでもなく、おしゃれ感満載の作品ばかりです。講評会の際に、彼は私を指名して「先生、スタンドライトのひもを引っ張ってみて下さい」と言いました。私が言われた通りにひもを引っ張ると、ランプシェードが灯る代わりに、垂直のスタンドが光りました。通常、ステンレスで出来ているはずの棒の部分に、蛍光灯が埋め込まれていたのです。
「どうですか、既視感を覚えませんか」と彼は得意気に尋ねてきました。意外な部分が光った驚きよりも、圧倒的な眩しさに不意をつかれて、私は不愉快な気分になりました。作品がおしゃれな仕上がりだけに、余計腹が立ったのです。この種のとんちを、テーマ通りの既視感と受け取るか否か、評価は人それぞれに分かれると思います。


デジャヴ・シリーズの作品群は、透明なアクリルと木材で構成した大型のテーブルで完結しました。最終審査会では「もっと洒脱な印象に仕上げられたのでは」と述べる先生たちと、「角度によって透明な部分の見え方が違うから、テーブルが浮いてみえませんか」と主張する学生の間で議論が白熱した挙句、時間切れで議論が打ち切られました。その作品は賞には入りませんでした。
しかし卒制展のふたを開けると、下級生の人気投票は彼の作品に集まりました。やはり、学生と先生では卒制に求めるものが違うのでしょう。ぱっと見で判断して、印象を言語化する必要性を感じない学生たちと、センスの根拠を解明してもらい、学科に知の財産を増やしていきたい先生たちとの間では、物の見方が違って当然だからです。感覚を共有できる同年代の若者にとっては作品の解説は不要です。しかし、年代も専門も興味も異なる大人たちに、自分の真意を伝えるには、言葉しか伝達の手段がありません。デザイン系の審査会では、誰にでもわかる平易な言葉で、目の前の作品を的確に表現する必然性があるのです。
作品が変化球ならば、せめてタイトルだけはストレートに表現してほしい、というのが私の願いです。想像力をかきたてるおしゃれなキーワードをテーマに据える代わりに、素材名称と加工方法で研究のタイトルを構成すれば、作品と名称の間にぶれは生じません。例えば、「1%のデザイン」というタイトルを「木材とステンレスを最小限の曲げ角度で構成した椅子の研究」に変え、「デジャヴ」というテーマ名を「アクリルと木材を用いたテーブルの存在感の研究」という名称に変更していたら、誰もが研究の意図を楽に理解でたと思います。もっとも、本人には嫌がられる改題かもしれませんが。
代案として、私は翌年度から、研究テーマに主題と副題を併用することを自分のゼミ生に勧めました。「揺れるデザイン」という研究タイトルを決めた学生には、「~振り子の原理を利用した接地面固定型オブジェの研究~」という副題をつけてもらうという具合です。この表記なら、表現の柔らかさと研究の固さを同時に表現することが出来ます。
私見では、タイトルは固すぎるぐらいでちょうどいいと思います。卒業してからは幾らでも自由で柔軟なプレゼンテーションに取り掛かることが可能です。しかし多くの学生にとって大学で研究と名のつく活動を行うのは卒制が最後です。タイトルによって、制作内容を学問として研究たらしめることも可能だと思うのです。
高橋佐門さんには、旅の空の下から、当時の卒制の写真をご提供いただきました。
(旅のブログにリンクします:晴れのち旅、ときどき日記。)
また、上記の内容についてお返事いただいたので、以下に転載します。
文章読ませて頂きました。自分すら忘れかけていた当時のやりとりなども書かれていて、卒制当時の心境や苦しみや悩みなどが克明に思い出されて面白いですね。
文書内容について思う所があるとすれば、やはりなんですが「アクリルと木材を用いたテーブルの存在感の研究」という所がですかね。。。
テーブルやスタンドライトを造る事が、初めからの目的では無いですから自分としては納得いかないのが正直な所です。
当時の説明不足の反省も込めて弁明させていただくと、もし副題をつけるとしたら「知覚・感覚現象の検証とデザインへの応用研究」っていう感じかな~と思います。あの頃興味があったのは、人は何らかの「感覚」を抱く時にいったい何が引き金となっているのか?という事で、「Deja-Vu」という不思議な現象を検証することで、知覚と記憶・感覚の相互関係を学び、自分なりの仮説を立ててその定義に従ってデザインを起こそうとしていました。実際1年間のほとんどは、アイディアを出そうという事より、足りない頭で心理学や脳と記憶に関する本とデジャブ現象の事例や見解に関する文書を収集し、何らかの感覚をひきだすの「定義」を見つけ出すことに時間のほとんどを費やしていました。スタンドライトとミラーは、その経過に出したアイディアなので「後出し定義」感もありますが、テーブルに関してはその学習の中から見つけた「定義」に当てはめてデザインしたものです。
「ひらめき重視派」と分類される私も、実は論理的な思考回路をもっています。しかし、その物事の核心にせまりたい思いから、一般的な常識などを一切無視して思考を廻らします。どこまでも。どこまでも。だれよりも深く。。。それ故にその思考経緯や論理が共有し難いものとなり、大切な部分が理解されないまま打ち出された意外な解答は「突如飛躍するトリッキーなアイディアマン」として見られるのではないでしょうか。
杉原先生が指摘する通りその思考過程や論理をキチンと伝達する能力というのは必要不可欠だったと思います。実はそこでの葛藤は常にもっていて、説明したく無いのではなく。与えられたあの時間の中でそれらを伝える言葉を持っていなかった。というのが正直なところです。その能力があれば同じ作品でもまた違った結果が得られていたかもな~。と、思います。
また、卒制の作品タイトルを改めて聞いたところ、以下のお返事をいただきました。
スタンドライト→「想イコミ」
かがみ→「違ワカン」
テーブル→「勘チガイ」わざと漢字とカタカナで読みづらくしてあります。
何故かというと、なるべ自然な心理状態から何気なく作品に触れた時の観賞者を観察したかったからです。
先にタイトルを読んで「想い込み」や「勘違い」といった情報をインプットしてしまうと「どこが想い込みなんだろう?」とか「勘違いなんだろう?」っていう、視点から作品に触れてしまい、ある種の先入観の中で観賞することとなります。そこを避けるため、先に何気なくキャプションに目が行ったとしても「想イコミ」ならば「想い込み」よりも、文字としての情報力が弱いので、よりフラットな状態で観賞させる事が出来ると考えていたからです。(その意図すらまた議論を呼びそうな感はありますが。。。)本来のデザインは、分かりやすさが重要だという事は十二分に理解しています。でも、僕のデザイン研究は心理を探る実験でもあったので、なるべく意図しない情報は与えたくないという事もあり「分かりずらさ」っていうのも重要なキーとなっていました。しかし、そこが逆に研究の内容をうまく伝える事が出来なくさせているという悩みの種でもありました。こういったタイトルの付け方ひとつという小さな事でさえも、その意図をキチンと伝えていないことで自分自身の評価を下げてしまっていたんじゃないかと思います。なので、杉原先生には改めて説明するチャンスを与えてもらえたので、とても感謝しています。本当にありがとうございます。

と、当時の講評回では聞けなかった思いを聞くことが出来ました。もし、高橋佐門さんが私のゼミ生だったら、コンセプトとタイトルについての議論は不可欠だったことでしょう。しかし、こうして改めて、卒制の意図を聞くことができました。気になっていた作品について、4年越しで返事が聞けて良かったです。
2007年度の大学案内に、鈴木研究室(当時:東北芸工大)の新4年生として掲載されていた高橋さん。大物の予感です。今後の旅のご無事を祈っています。首都大東京を経て、工学院大学に移った鈴木研究室にも、ぜひそのうち顔を出して下さいね。
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